さて、本日取り上げるのは「スターウォーズ」の「シークエル三部作」だ。
ただし、この三部作を感情的に全否定する気は毛頭ない。むしろ、優れた素材や魅力的な可能性が数多く存在していたにもかかわらず、それらを三部作として有機的に結びつけられなかった「構造的な問題」に切り込んでいく。多くの人が漠然と抱いていたモヤモヤを、物語設計やシリーズ継承の観点から、できるだけ言語化していきたい。
まず前提として「シークエル三部作」とは何を指すのかを整理しておきたい。
スターウォーズには、映画本編だけでも大きく分けて三つの三部作がある。
最初に公開されたのが、我らがルーク・スカイウォーカーを主人公とする旧三部作。
「新たなる希望」
「帝国の逆襲」
「ジェダイの帰還」
その後に作られたのが、アナキン・スカイウォーカーがダースベイダーへと堕ちていく過程を描いたプリクエル三部作。
「ファントム・メナス」
「クローンの攻撃」
「シスの復讐」
そして、ディズニーによるルーカスフィルム買収後に制作されたのが、今回扱うシークエル三部作だ。
「フォースの覚醒」
「最後のジェダイ」
「スカイウォーカーの夜明け」
「シークエル」とは、簡単に言えば「続編」という意味である。
つまりこの三部作は、ただの後日談じゃない。
旧三部作で一度は完結したはずのスカイウォーカーの物語を、どう続けていくか?どう継承していくのか?
本来であれば、シークエル三部作にはそうした大きな役割があった。
問題はスターウォーズという神話を継承し、再構築するはずだった三部作が、三部作としての設計図が不在のまま作られてしまったことにある。
この三部作を語る時に、単に「面白かった」「つまらなかった」という好みの話だけで済ませるには、あまりにも構造的な問題が大きい。
もちろん、映画は最終的には個人の体験なので、好き嫌いがあって当然だ。「最後のジェダイ」を傑作と受け取る人もいれば、作中の新世代のキャラクターに強く惹かれた人もいるだろう。その感情を否定するつもりはない。
しかし、三部作全体をひとつの長編として見た場合、シークエル三部作は明らかに構造的な欠陥を抱えている。
その最大の問題は、この三部作に一貫した設計思想が存在していない点だ。
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