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黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」
2026年3月25日(第641号)
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【メルマガ事務局長から読者の皆さまへ】
ついにその日がやってきてしまいました。今号が最終号となります。
長い間、黄文雄のメルマガをご購読頂いた皆様には本当に感謝しております。黄文雄先生が他界してから一年半以上が経ちました。
メルマガを作成している我々としては、亡くなってすぐにメルマガを止めてしまうのはとても寂しく、しばらくは黄文雄先生が存命の時と同じように発行を続けていたかった、というのが本音です。
しかし、著者が新たな原稿を書くことが出来なければ、連載はいつかは尽きてしまうものです。そして、残念ながら早くもその時が来てしまいました。最終回となった今号では、長年メルマガをご購読頂いた皆様と、黄文雄先生の話題で締めたいと思います。
気が付けば、黄文雄先生との付き合いは30年以上になっていました。先生との縁は、友人の紹介から始まりました。30年以上前のこと、パソコン作業を全くしない先生は、手書きの原稿を文字起こししてデータにしてくれるアシスタントを探していました。
そこで、当時、フリーライターとしてテープ起こしなども請け負っていた私を、友人が先生に紹介してくれました。そこから私と彼の縁は始まり、いつしか我々で手掛けた本の数は数えきれないほどになっていました。
黄文雄先生は、常に数人のアシスタントを抱えており、数冊の本を同時に執筆することもよくありました。それだけでも大変だというのに、執筆のためにとにかく資料を読んでいました。
大学の図書館や、国会図書館など、求める蔵書を有する図書館に出向く日は、一日中蔵書を漁り、山積する資料の中から必要なものを的確にピックアップし、それらを整理、精読して執筆に挑むのが常でした。その整理術とスピードの速さには、当時は本当に驚いたものでした。
遅咲きの作家でしたが、『醜い中国人』(光文社)がヒットした後は、亡くなるまでずっと人気作家の地位を不動のものとするほど、多くのヒット作を出すことができたのは、裏でこうした努力を惜しまなかったからです。
人気作家という顔を持つ一方で、台湾独立運動の活動家としての顔を持っていたことも広く知られています。戦後、日本に帰化した黄文雄先生は、人生の半分以上は日本人として生きてきましたが、その根幹にある台湾人としての誇りと独立心はいつまでも熱いままでした。
定期的に台湾に行って、李登輝元総統や台湾独立運動の指導者とも言われた黄昭堂氏など、関係者と会って話をし、旧交を温めると同時に情熱を確認しあい、情報を交換していました。そして、その広い人脈を、先生は惜しげもなく、多くの人と共有してくれました。
とくに、次世代を担う若者を育てたいという気持ちが強かった時期があり、なんとかして自分を含めた、周囲にいる人々が共有する思想や志を、次代の若者に受け継いでほしいと思い、目をかけていた学生には、人脈の紹介や経済的支援を惜しみませんでした。
経済的支援といえば、黄文雄先生は寄付を惜しまない人でもありました。売れっ子作家のもとには、様々な団体または個人が寄付を求めてきますが、求められればできる範囲の善意を示し続けてきました。人材育成にはお金が必要だからと、志を共にする人々への敬意がありました。
黄文雄先生は、60代後半くらいまでは、なかなか恰幅のいい体型をしていましたが、実は食事の量はそれほど多くなく、酒もタバコもやらない人でした。それなのに大きなお腹をしているので、一度聞いたことがありました。「あまりお食事なさらないのに、なんでお腹が大きいんですかね」と。
先生は笑って「体質ですかね」と言っていました。普段はよく笑い、冗談も言う明るい人でした。
黄文雄先生の活動は執筆と講演活動の二本柱で成り立っていました。呼ばれれば日本各地どこにでも講演に出向いていました。数百人のホールの席が埋まるほどの人気があったので、読者に直接自身の考えを伝えることができる貴重な機会だと、講演活動も精力的に行っていました。
台湾の未来を知ることは、日本の未来を知ることでもある、という考えをベースに、中国や台湾の歴史からアジアの未来を紐解く、という内容が多かったように思います。
中国でSARSやコロナといった伝染病が爆発した際には、緊急出版として、伝染病が蔓延した原因を分析する書籍の執筆も引き受けていました。緊急出版というのは、その名の通り緊急のため、執筆に与えられた時間が通常よりも短いにも関わらず、嫌な顔をせず勢力的に取り組んでいました。
我が家に子どもができた際には、育児に専念して欲しいからという理由で、私への仕事依頼は遠慮してくれていたため、十数年間は少し関係が浅くなりましたが、子供が大きくなったころに再び連絡をくれて、アシスタントを再開することになりました。
ただ、その頃にはかなりお年を召していたことから、手書きの原稿が以前にもまして読みにくい字になっていて、解読するのが困難なほどでした。精力的に行っていた講演活動も、加齢によって体力の衰えや活舌が悪くなったことで、行うことができなくなっていました。
それでも、講演の依頼がくれば「行きましょう」と動いてくれるのです。晩年のあるとき、学習院大学のあるゼミの先生から学生たちへの講演依頼がありました。メールの管理は私がやっていたので、それを黄文雄先生に伝えたところ、やはり「行きましょう」と快諾してくれたため、先方の先生には高齢のため活舌が悪いけど大丈夫かと確認をした上で約束を取り付けました。
心配だったので、当日は私も同行し、講演を聞いてきましたが、やはり言葉が聞き取りにくく、学生たちからの質問に対しても、ピンポイントでの回答ができなくなっていました。それでも大学の先生は来てくれたことに対してとても感謝してくれていました。黄文雄先生は、そこに存在するだけで価値のある人なんだなと、改めて実感した出来事でした。
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