━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
佐々木俊尚の未来地図レポート 2026.3.23 Vol.901
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
http://www.pressa.jp/
【今週のコンテンツ】
特集1
スポーツにも仕事にも料理にも、あらゆる局面にフローはある
〜〜フロー状態を増やすことこそが人生を幸福で満たす
特集2
わたしが濫読してるさまざまなKindle本を紹介
未来地図キュレーション
佐々木俊尚からひとこと
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 特集1
スポーツにも仕事にも料理にも、あらゆる局面にフローはある
〜〜フロー状態を増やすことこそが人生を幸福で満たす
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
幸福は、地位やお金、家族の有無など属性や所有物で決まるものではありません。名誉ある地位につきながらも始終文句ばかり言っている人はXでたくさん目撃できます。お金も欠乏しているときには「お金があったら幸福になれるのに」と思いますが、実際にお金を手にすればその喜びはほんの一瞬で、すぐに当たり前になってしまいます。厳冬期の暖かい部屋のように。そして結婚していたから、子供がいるからといって幸福ではないというのはだれもが知っている現実です。
昭和のころ、まだ一次産業や二次産業に従事する人が圧倒的多数だったころは「土にまみれるような仕事から脱却したい」「手が油に汚れる仕事ではなく、パリッとスーツを着て仕事をできるようになりたい」と多くの人がホワイトカラーを目指しました。「ホワイトカラーになってデスクワークをするようになれば幸福になれる」という幻想があったのです。
しかしそんなものが幻想でしかなかったのは、平成以降にさんざんホワイトカラーのブラック労働を見てきたわたしたちには自明すぎる事実です。近年は地方移住や地方との二拠点生活が当たり前になり、優秀な大学を出たり、大手企業に勤めていたりしたような人が、地方に移って農業や漁業に従事するケースも増えてきました。年収は決して多くなくても、それで自己充足して幸福を感じている人はたくさんいます(もちろん、移住してみたらギャップに落胆して不幸になる人もいます。念のため)。
一次産業のように身体をフルに駆使する仕事というのは、没頭や充実を感じやすい。それはスポーツを好む人ならだれもが理解できるでしょう。アスリートは目の前の競技に没入すると「自分は今スポーツをしている」という自己意識が消失し、自分の置かれている状態を意識することから解放される。前回も書いたようにこれが「フロー」の状態ですが、スポーツだけでなく手足をフルに駆使するような仕事はフローを生み出しやすいのです。農業や漁業がそうですし、身近なところでいえば料理もそうです。
わたしは毎日のように家庭料理をつくっていますが、執筆仕事を終えて台所に移動し、料理を始めると、たとえようもない解放感を感じます。原稿を書くという仕事は、調子に乗ってくればフローの状態に入ることができるのですが、書いているうちに自分の原稿に疑念を感じてきたり、いったん思考をひっくり返してみたりと推敲的なことをしていると、自意識が邪魔をすることが多いのです。つまりフローから脱落してしまいがちになります。
それに比べれば、料理という営みには疑念や推敲はありません。ほとんど無意識のように、水が流れるように料理をしていると、気がつけば自己意識は消失して、あっけなくフローの状態に入ってしまっている。自分の脳の活動が手先の包丁や菜箸の動きに統合されて、思考と手の行為が一体化しているような感覚になります。料理をしている時間、わたしは確かに幸福を感じているのです。
レストランのプロではない単なる家庭料理であっても、料理にはつねに向上があります。去年はうまくできなかったキャベツの千切りが、気がついたらスライサーなど使わずに包丁だけでキレイにできるようになっている。さまざまな工夫を重ねて、それらの工夫がスキルとして自分の身につき、味や食感が向上している。しかも慣れてくれば、それが面倒でも何でもなくなってくる。
たとえばわたしはそばつゆをいつも自家製しています。醤油とみりん、水を1:1:4の比率で鍋に加え、昆布と鰹節と一緒に火にかける。沸騰しかけたら弱火にして、4分煮る。けっこう面倒な作業なので、以前はまとめて1リットルぐらいはつくり、冷蔵庫に収めていました。夏は冷えたままそばつゆにし、秋から冬、春にかけては小鍋に移して火にかけ、豚肉や鶏肉、ネギ、小松菜などと一緒に煮て冷たい蕎麦に添えていたのです。
しかしこの冬ぐらいからは、「寒い時期はそばつゆを熱いまま使って冷やす必要が無いんだから、その都度つくってもいいんじゃないか?」と思うように。実際そうしてみると、日ごろそばつゆなんて自家製しない人にはたいへん面倒かもしれませんが、だしをとることを日常にしている自分にとってはまったく面倒な作業ではなくなっていることに気づくのです。
さらに加える豚肉や鶏肉も、アクをとってしっかり火を通そうとすると、どうしても硬くなってしまう。これがイヤだったのですが、もう少し手間をかけてみることにして、薄切りにした肉にかたくり粉をまぶして静かに沸かした湯に沈めて硬くならないうちに引き上げるという「別茹で」方式に変えました。熱いそばつゆができあがってから、別茹でしておいた肉とネギや小松菜を投じて軽く温めるだけにしたのです。
これによって、いつもできたての香りの良いそばつゆに、柔らかく茹で上がった豚肉を添えるという美味しいそばへとアップデートされました。10年前だったらこんな面倒なことはしなかったでしょうが、長い年月を料理に使っているうちに道具の使い方も手際も段取りも良くなり、こういう作業が苦ではなくなっていたのです。
前号で、フローを提唱した心理学者チクセントミハイの「フローのための三つの要件」を紹介しました。再掲します。