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佐々木俊尚の未来地図レポート 2026.2.9 Vol.854
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【今週のコンテンツ】
特集1
「日本には普遍的な理念がない」という近代日本人の悩み
〜〜日本の共同体感覚とはどのようなものか(2)
特集2
わたしが濫読してるさまざまなKindle本を紹介
未来地図キュレーション
佐々木俊尚からひとこと
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■ 特集1
「日本には普遍的な理念がない」という近代日本人の悩み
〜〜日本の共同体感覚とはどのようなものか(2)
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日本には、普遍的な理念という「軸」「中心」が存在してきませんでした。それは近現代にかぎることではなく、おそらく古来からの伝統ではないかと考えています。
たとえば日本における「神」は、ユビキタス(遍在的)な常にそこにいる存在と考えられています。とはいえ一神教の全能の神のように、すべての場所に「同時に」存在しているわけではありません。
「八百万の神様」とも呼ばれるように、日本の神は蝶かなにかのようにふわふわとあちこちと飛び歩いていて、小さくなったり大きくなったり、自由自在のこの空間の中を遊び歩いているというようにイメージされているのです。「米粒の中にも七人の神」という表現がありますが、これは米粒の中に神が常にいるということではなく、神は時には小さくなって米粒の中に入り込んでいることさえある、というようなとらえかたなのです。
だから神をまつる神社は、常にそこに坐っている神をまつっているわけではありません。いまそこに座している仏像をまつっている仏教寺院とはそこが違うのです。神社は、神が来てもらうために何もない空間をつくってまつっているのです。
歴史的に見ると、神社の中心は「代(しろ)」と呼ばれる形にあると聞いたことがあります。地面の上に四本の柱を四角く立てて、それぞれの柱の頭頂部をしめ縄で結んだものです。これによってその四角形の内側に「何もない空間」ができ、そしてここに「神がやってきてくれるかもしれない」という期待感が生まれるのです。これが日本の神様信仰の源流だと言います。
実際、登山をして深い森の中などを歩いていると「おお、なんだかこの場所はとても神々しい感じがするぞ」というようなスポットに到達することがあります。わたしは昨今のスピリチュアルブームには否定的なので、パワースポットとかそういうものにも興味はないのですが、「ここは他の場所とは何かが違う」と感じるような空間がたしかにあるのです。そういった言語化しにくい感動が、太古における神社の原型になったのかもしれません。
この神社の中心である代(しろ)に屋根をつけたものが、屋代(やしろ)。つまりは「社」です。そのまわりに鳥居を立てて通路を作り、全体を構造化していったものが現在の神社になっていきます。屋根をつけるようになったのは、飛鳥時代に大陸から伝来した仏教の影響だとも言われているようです。
このような「中心が空白」という感覚は、今も日本人の価値観の中にひっそりと埋め込まれているのかもしれません。人口4千万人を有し、世界最大のメガロポリスである首都圏の中心には皇居があります。皇居には威厳のある巨大建築物など何もなく、ただ濃い緑の森の中に控えめな天皇家の住居などがひっそりと佇んでいるだけです。これぞまさに、神が舞い降りてくる「代」のような場ではないでしょうか。
中心が空白であるという日本らしさは、伝統文化にも「余韻」「余白」というニュアンスで色濃く投影されていると感じます。「古池や蛙飛びこむ水の音」という松尾芭蕉の有名な俳句などもそうですが、対象そのものを描くのではなく、対象が消えることによって残る余韻や余白によって対象を湾曲に描くという手法は、伝統文化から現代のポピュラー文化にいたるまで一貫しています。
たとえば、前回も紹介したNHKスペシャル「新ジャポニズム」のボーカロイドの回で、英国のラファウ・ザボロフスキさんという研究者がこう語っています。
「ボーカロイド音楽の余白はとても大きく、どう埋めるかは、個人・世代・地域によって異なります。わたしたちにゆだねられた余白は非常に大きく、そのこと自体が世界的にとても珍しいのです」「初音ミクは空っぽの器で、自分の感情を投影できるのです」
神社の「代」に神が舞い降りてくるように、ボーカロイドという空白の場所があるから美しい音楽が舞い降りてくるということなのでしょう。ボーカロイドは人口の音声であり、人間の歌声のような実体がない。実体がないからこそ、だれもが参加しやすいという逆転的な発想なのです。
いっぽうで政治的にみると近代以降、日本のこの「代」的な発想や普遍的理念の欠如は、日本のデメリットだと考えられてきました。帝国主義の時代、キリスト教を背景にした絶対的な理念を西欧列強は持っていたからこそあれほどに強くなれたのだ、と日本人が考えたのも無理のないことです。そもそも西欧自身が、みずからが植民地侵略を進めていく自己正当化として「われわれは民主主義という普遍的な理念を世界に広めていくために、植民地を拡大しているのだ」という考えかたをとっていましたから。