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「聖地学講座」
vol.320
2025年10月16日号
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◆今回の内容
○今、私たちに必要なのは擬死再生ではないか
・還暦と擬死再生
・修験道と擬死再生
・擬死再生の意味と効果
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今、私たちに必要なのは擬死再生ではないか
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この数年、親しい友人の死に突然直面することが何度もありました。今年も、3月末に会って、楽しく話をした年下の仕事仲間だったO君が4月に入って突然亡くなり、7月には、北陸に行くと必ず寄っていたカフェのオーナーだったKさんがなくなりました。Kさんは、私が行くと、親しい友人を集めてワインの会を催してくれて、夜遅くまで様々な話で盛り上がる、考え方や世界の捉え方がとても似ているかけがえのない友人でした。
二人とも、ある日突然、「もうそろそろ生きることをやめてもいいかな」と気持ちが死へと引き寄せられて、そのままこの世から旅立ってしまったような、残された者にとっては切ない亡くなり方でした。
O君は、亡くなる一週間前のとあるメディアの懇親会のとき、多くのメディアがSNSなどに引きづられるようになっていることを嘆いて、自分たちが何十年もやってきた仕事の意味がどんどん薄れていってしまうことに、力を落としていました。
Kさんは、60年代のカルチェラタンのような雰囲気を作り出したいという思いで開いたブックカフェが、近年、軽薄なポピュリズムを得意げに語るような人たちがやってくるようになり、自分の「場所」から疎外されていくように感じていました。結局最後の対面となってしまった去年、「もう、ぼくは自分が生きていることの意味がわからなくなったよ」と力なく呟いたその姿がずっと心に残っていました。
そのことを思い出して、5月に京都を訪ねたときに足を伸ばして、カフェを訪ねようかと思ったのに、仕事の予定を言い訳にして足を伸ばさなかったことが、今でも心残りで仕方ありません。
そんな二人の死とともに、この数年に亡くなった友人たちのことを思うと、Kさんの呟きが蘇ってきて、「人間性」や「生きることの意味」といったことが希薄に感じられるこの現代社会で、私も、自分が存在していることの意味がわからなくなってきます。そして、存在に意味がなければ、いっそ消えてしまえばいいという心境になってしまうのも身に沁みて感じます。
客観的に見れば、こうした社会との乖離のような思いは、「疎外(alienation)」といえるでしょう。ヘーゲルやマルクス、ウェーバーの用語としての疎外です。疎外は、産業社会の成立によって生まれ、さらに産業社会の進展によって、より深まってきたものだともいえます。
産業化以前、人間性は共同体・自然・宗教的秩序の中で定義されていました。幸福とは、個人の成功よりも「共同体との調和」や「自然との循環的関係」の中に見出されるものでした。
18から19世紀の産業革命以降、人間は生産する主体として、個人が共同体や自然から切り離され、職業が与えられた使命となり、幸福は、勤労と成功、進歩と豊かさに結びつけられました。そして、労働は資本の論理に包摂され、疎外が生まれました。
21世紀に入ると、情報社会の進展にともなって、合理性が徹底的に追求され、人間は社会の歯車としてどんどんすり減っていきます。そんな中で、幸福という観念は「自己実現」や「ウェルビーイング」などの言葉で語られるようになりました。しかし、こうした概念も産業・情報社会の文脈の中で語られる「商品」でしかなく、それらを求めるために働くという決定的な矛盾を内包して、それ自体がストレスの元になっています。
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