2025年 第26号
【長尾和宏の痛くない死に方】
こんばんは。長尾和宏です。
函館でこの原稿を書いています。昨日・今日とたくさんの人にお会いして、感無量です。
そしてまずは、このメルマガでも何度も告知をさせていただいたライブツアー「長尾です」が無事終了いたしましたことをご報告いたします。
東京、大阪、名古屋。お越しいただいた皆様に、心から御礼を申し上げます。そして、息つく暇もなく、いよいよ僕が製作総指揮を務めました映画「桐島です」が7月4日に公開されました。その日は新宿で、主演の毎熊活哉さん、監督の高橋伴明さん、脚本の梶原阿貴さんとともに。新宿武蔵野館という映画館で、舞台挨拶に登壇いたしました。
映画の撮影が始まったのが、昨年の夏。ほんとうに暑かった。この一年、映画のためにさまざまな人と出会い、多くの時間を共有した。映画は一人でできるものではない。監督、脚本家、俳優、助監督、制作部、宣伝部、編集……それぞれがそれぞれのことを本気でやる。プロしかいない世界。プロフェッショナルがそれぞれの現場で知恵を絞り、前へ進むために意見をぶつけ合う。ときには怒りをあらわにすることもある。ケンカになることもある。何度も何度もぶつかり合って、磨かれた結晶が、一本の映画になる。そんなみんなの想いを背負いながら、僕は、舞台挨拶を今月はし続けます。
左翼映画なんでしょ? なんて揶揄されることもある。確かにこれは、1970年代の学生運動を描いた映画である。だけど、実情を知らずして、「左翼映画なんかクソくらえだ!」と嘲笑する人は、たいてい、高齢者。年を取るとはすなわち、新しい思考を受け入れなくなったときをいうと思う。僕はもう、左翼とか右翼とか、そんな政治軸で物事を考えることを、とっくの昔に終わらせている。そういう意味では、僕はまだ、高齢者ではないという自負がある。
「右翼・左翼」――その考えは、もう古い?
時代とともに変わる「政治のモノサシ」
かつての日本、特に戦後から1980年代ごろまでは、「あなたは右翼ですか?左翼ですか?」という問いが、政治や社会運動を語る上での当たり前の会話でした。日米安保反対運動、学生運動、あるいは教科書問題や国旗・国歌の扱いなど、「右」か「左」かがその人の立場を決める重要な目印だったのです。
しかし――令和の今、「右も左も、よくわからない」と感じる若者が増えています。それもそのはず、時代は大きく変わり、「右翼・左翼」という言葉ではとらえきれない現実が、我々の前に立ちはだかっているのです。
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戦後から1980年代まで――「右・左」が熱かった時代
戦後日本において、「左翼」とは平和主義、護憲、反米、社会主義・共産主義への共感といった考え方をもとに、労働運動や反戦運動を推進する人々を指しました。1950年代~60年代の安保闘争では、学生や労働組合、文化人たちが一丸となって政府と対峙しました。
一方の「右翼」は、天皇制や日本の伝統文化を重視し、自主憲法制定、国防強化、教育の保守化などを主張する勢力。1960年代以降には、いわゆる街宣車での活動など、過激な表現も目立ちました。
1970年代には左翼の学生運動が過激化し、内ゲバ(仲間同士の暴力抗争)や連合赤軍事件などが起き、「左翼=危ない」というイメージも強まりました。
1980年代になると、日本経済が高度成長を遂げ、人々の関心は「政治」よりも「経済」へとシフト。右も左も、「市民の日常」とは距離が離れていきました。
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平成の時代――イデオロギーよりも「生活」へ
平成に入ってからは、「右か左か」ではなく、「豊かになれるか」「安心して暮らせるか」という、もっと身近な課題が重視されるようになります。
例えば、非正規雇用の増加、格差の拡大、子育てや介護の負担、地方の過疎化――これらの問題に、「保守」か「革新」かはあまり関係がありません。右派の政治家も子育て支援を訴え、左派の政治家も財政健全化を主張する。つまり、かつてのイデオロギーに基づく対立は、だんだん色あせてきたのです。
また、インターネットやSNSの普及により、人々の意見は多様化し、ひとつの大きな「右・左」のグループには収まらなくなりました。「保守的な考え方を持っていても、同性婚には賛成」といった“ミックス”な立場をとる人が増えています。
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令和のいま――「新しい政治軸」はどこにあるのか?
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