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『 田中優の未来レポート 』
第325号/2025.2.15
http://www.mag2.com/m/0001363131.html
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「国鉄三大ミステリーから考える・・安全神話は本当なのか?」
ぼく自身、東日本大震災の原発事故と放射能汚染を経験して東京からの脱出を決めた一人だから、その後転居した岡山からそれまで住んでいた東京での用事のためには、新幹線を使っていた。だからより新幹線の安全性について敏感になったのかもしれない。今は大学の非常勤講師も辞めたので、乗るのも年に数回程度。だから滅多に乗らないから、事故の不安よりも楽しみが勝ってしまう。乗る時に覚悟を決めれば、後は忘れていていい。今や幸せな関係となっている。
気になって戦後からの鉄道の事故の歴史を見直してみた。戦後とは1945年だが、ワシントン平和条約によってGHQが撤退するまで日本の領土や賠償範囲などが決められていなかった。だから日本の主権は制限つきのものだった。
その制限付き主権の間に日本の国鉄に関する三大事故・事件と呼ばれる「ミステリアスな事件」が起きている。「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」だ。時代背景は以下のようなものだった。
1949年(昭和24年)、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に李承晩政権と金日成政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、戦後日本占領を行うアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの「民主化」から「反共の防波堤」として位置付ける方向へ転換した(逆コース)。
まずはハイパーインフレーションにあえぐ日本経済の立て直しを急ぎ、いわゆる「ドッジ・ライン」に基づく「緊縮財政策」を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。
下山事件
この時期に起きたのが国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明に轢死体となって発見された「下山事件」だ。下山国鉄総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われたことから、それに対する報復として国鉄労働者組合のメンバーなどを疑った。
下山事件では下山総裁が自殺なのか他殺なのかが争点になった。死体が生体轢断(自殺の根拠)か死後轢断(他殺の根拠)かで大きな争点となった。捜査一課は自殺説を主張、警視庁捜査二課が他殺説を主張した。最終的には他殺説及び自殺説について公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。
三鷹事件
続く7月15日、東京三鷹で無人列車が暴走し脱線し、死者6人、負傷者20人を出した。これが三鷹事件だ。これまた国労組合員が疑われ、国鉄労働組合員11人が起訴された。裁判では10人の共産党員に無罪判決が出て1人の非共産党員に死刑判決が確定した。しかもこの犯人とされた者も犯人と断定するには怪しく、実質的には定まったとは言い難い。
松川事件
松川事件(まつかわじけん)は、1949年(昭和24年)8月17日に福島県の日本国有鉄道(国鉄)東北本線で起きた列車往来妨害事件。下山事件、三鷹事件と並んで第二次世界大戦後の「国鉄三大ミステリー事件」のひとつといわれており、容疑者が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となり、真犯人の特定・逮捕には至らず、未解決事件となった。
事件翌日には当時の増田甲子七内閣官房長官が「(三鷹事件などと)思想底流において同じものである」との談話を発表した。当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合と国鉄労働組合(国労)構成員の共同謀議による犯行とみて捜査を行っており、むしろこのような予見と決めつけこそが「底流において同じ」と言えるだろう。
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