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『 田中優の未来レポート 』
第323号/2025.1.15
http://www.mag2.com/m/0001363131.html
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『ぼくの墓碑銘』
この正月休みに「南極大陸」のドラマを見た。
この話の始まりは実話だ。だが実際のことは犬に話が聞けないからわからない。
時期は1956年11月、世界で協力して南極観測をしようという話に始まる。しかし世界から見れば世界中を巻き込んだ世界戦争が終わったばかりで、日本はしかも敗戦国側である。世界に行動が承認されるような状況になかった。その中で観測を頼まれた場所は決して楽な場所ではなく、装備も十分ではなかった。しかし日本はこれをきっかけと捉え、世界的位置を得る足掛かりにしたかった。そんな思いもあり日本を挙げてのプロジェクトとなった、その当時の技術力ではかなり無理をしての出航であり、実際に南極海を覆う厚い氷を割って進んでいく「砕氷船」はアメリカの船に頼まなければならなかった。
そして総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭のカラフト犬と、南極観測船「宗谷」で南極へ出発した。
南極に行くには赤道を越えていかねばならない。しかし寒さに強いカラフト犬たちは暑さにはとても弱い。そのため「宗谷」には暑さに弱いカラフト犬たちのために、「冷房室」が特別に用意された。実際、ぼくが南半球に出掛けた時も、初夏だというのに「冬の防寒着」を持っていくしかなかった。季節の違いのせいで荷が嵩張るのはどうにもならなかった。また当時の技術では無理なことも多かった。犬が使ったという冷房室だが、この年はぼくの生まれた年だが、ぼくのクルマに冷房が付けられたのは、ぼくが20歳になってからだ。
その犬たちの昭和基地での主な仕事は「犬ぞりを引く」ことだった。これは過去の探検から20年後のことだ。そんな時期だから過去の南極探検の事実を調べた。機械的なものより検隊の探検隊が使っていた犬ぞりのようなものの方が、信頼性が高かった。そこで、最終的に日本が提案した「犬ぞり」方式が一番合理的な判断だった。この判断は正しく、機械的なものでは寒さへの耐久性があるかどうかわからず、修理も用意すべき部品もなかったからだ。過去の探検からの経験に学んだものだった。
昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭をのぞいた19頭の犬たちは、犬ぞりを引く役割などを担った。越冬中に2頭が病死し、1頭が行方不明となり、シロ子は8頭の子犬を産んだ。
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