池田清彦のやせ我慢日記
/ 2024年8月23日発行 /Vol.270
INDEX
【1】やせ我慢日記~日本の近現代史における歴史的分岐点について 7~
【2】生物学もの知り帖~スプリングボックカマキリのオスの命懸けの性行動~
【3】Q&A
【4】お知らせ
『日本の近現代史における歴史的分岐点について 7』
前回と前々回はちょっとお休みして別のテーマの話をしたが、今回はミッドウェー海戦の敗北に続き、日本の壊滅を決定づけたサイパン陥落の話をする。その前にそれまでの戦いを振り返って、日本軍がいかに非合理的な戦いをしたかをざっと振り返ってみよう。
日本は1941年の12月1日の御前会議で米英蘭に対する開戦を決定するが、何度も書いたように彼我の国力差は明白で、戦争しても勝てないことは開戦を支持した指導者の大半も分かっていた。石油の備蓄が1年半しかないので、このまま石油の備蓄が減っていけば、戦争に使える石油はますます減っていくので、なるべく早く開戦しないと万に一つも勝てる見込みはないといった、ほとんど理屈にならない御託を並べて、開戦を決定したと説明されても、どう考えても不可解で、何かもっと別の理由があったのではないか。
私見によれば、おそらくそれは指導層の政策決定におけるマウントの取り合いにあったのではないかしら。政策や作戦の決定にあたって、自分の主張を通したいというのは権力志向の強い人が持つ宿痾であって、反対派の意見を抑えて自分の意見を通すと、脳内にドーパミンとノルアドレナリンが分泌されてこの上もない快感に浸ることができる。
論争に勝つ最も重要な戦術は(少なくとも日本においては)、主張の正当性ではなく、反対意見を抑える情緒的な言動である。戦争前の開戦派と非開戦派の論争において、開戦派の方が威勢が良かったことは間違いない。非開戦派は、開戦派から「開戦前から負けるかもしれないと言っていたら、勝つ戦いも勝てない」「命を惜しまずに戦うのが大和魂で、お前のような軟弱な奴は日本男児の恥だ」と声高に糾弾され、「それでも彼我の国力を鑑みれば日本は負けるからやめろ」という主張はかき消されてしまったのだろう。開戦派も情勢分析が出来るほどの人ならば、日本は負けると分かってはいたが、合理的な思考はマウントを取る快感には勝てなかったと思われる。まあ、心のどこかでは日本が負けても自分は生き延びるだろうと思っていたのかもしれないね。ついでに、徴兵される兵隊の命のことは思慮の他だったに違いない。
12月8日に日本は宣戦布告なしに真珠湾とマレー半島に奇襲をかけて太平洋戦争が始まった。山本五十六の思惑通り、当初、日本は連戦連勝であったが、勝っているうちに和平交渉を有利に進めるという目標はどこかに消えてしまった。長引いたら負けると分かっていたのに、どういう手順で和平交渉を始めるかといったプログラムが全くなかったのだから、始めた時点で負けるのは必然だったのである。
尤も、宣戦布告なしに奇襲をかけるという卑怯なことをしたので、アメリカは本気で怒ってしまい、和平に応じる可能性は、ゼロに等しかったのだけれどもね。前にも述べたように、真珠湾攻撃のニュースを聞いたチャーチルは「戦争の勝利を確信した」と回想している。和平がなくなれば、日本が負けるのはチャーチルの目には(チャーチル以外のまともな人の目にも同様に)時間の問題であったのだ。
とまれ、未だ戦闘態勢が整っていなかった米英を相手に、日本軍は破竹の勢いで東南アジアに侵攻して1942年3月9日、蘭印(オランダ領東インド)を陥落させ、念願のスマトラ・パレンバンの製油所を奪取した。石油の備蓄が乏しかった日本にとって、蘭印の石油は何にもまして欲しいものであり、パレンバンを攻撃されないように、最大の努力を払うようになる。それで、攻撃拠点となると予想されるオーストラリア北部のダーウィンをはじめ、オーストラリア本土を計97回も空爆するが、はっきり言って、これはコストパフォーマンスが悪い作戦であった。この後も日本はアメリカの主力艦隊を叩くという最重要な目標に全勢力を注がないで、あちこちに戦線を拡大して、徒に戦力を浪費したのである。
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