池田清彦のやせ我慢日記
/ 2024年7月12日発行 /Vol.267
INDEX
【1】やせ我慢日記~日本の近現代史における歴史的分岐点について6~
【2】生物学もの知り帖~シロスジカミキリ~
【3】Q&A
【4】お知らせ
『日本の近現代史における歴史的分岐点について6』
前回は、戦線を拡げすぎた反省から、戦線を縮小して「絶対国防圏」を決定し、これを守ることに戦力を集中させるのかと思いきや、圏外のギルバート諸島のタラワとマキンを放棄せずに、両島での戦い(1943年11月20日~23日)でぼろ負けして、両島を守っていた守備隊を玉砕させた、というところまで書いた。陸軍と海軍の思惑が違って作戦がチグハグで、意地と面子のために戦っているみたいで、もういい加減敗北を認めたらよさそうなものだという話をした。
国力に勝るアメリカは、その間にも着々と日本を追い詰める兵器を量産しており、1943年6月には爆撃機B-29が開発・実用化された。日本に近い中国の空港から出撃されると、日本本土の空爆も可能となるので、日本は中国の太平洋岸の、連合軍の空軍基地を占領する作戦を立て、満州からインドシナまで帯状に進撃して、その間にある桂林や柳州の飛行場を占領して、連合軍に使わせないように、50万名の兵力と800台の戦車、7万の騎馬を投入した。これは大陸打通作戦と呼ばれ、1944年4月から12月まで行われた。対する蒋介石率いる中国国民革命軍は100万の兵力を誇ったが、士気は低く、日本は大勝した。しかし、連合軍は桂林や柳州の飛行場を放棄して、さらに奥地の成都に引き上げており、連合軍に実害はほとんどなかった。
この作戦を通しての日本兵の戦死者と戦病死者は10万名と言われており、徒に戦力を消耗しただけに終わったと言ってよい。前回のタラワとマキンの戦いの項でも書いたが、日本は敵のいないところに出撃して、空振りに終わって戦費だけが嵩んだという話が多い。情報収集力が連合軍に比べて弱かったのが一番の原因である。戦争に勝つためには軍事力と同じくらいに情報力も大事なのだ。
成都に引き上げたアメリカ軍は、1944年6月15日に、成都から75機のB-29を出撃させ、八幡製鉄所を主目標とする空爆を行った。パイロットがまだ稚拙だったので、さしたる成果は上がらなかったようだが、日本に与えた心理的な恐怖とアメリカ国民の喜びは大きかった。これを含めて八幡への空爆は3度行われたが、1944年7月にサイパンが陥落して(後述する)サイパンから出撃すれば容易く本土攻撃ができることになり、大陸打通作戦の当初の目的はほとんどなくなったが、日本軍は無益な戦いを続け、食料も燃料も不足していった。日本軍も中国軍も食料は現地調達だったので、戦いに巻き込まれた住民の憤怒と苦労は察して余りある。
1944年12月10日に仏印から北上してきた部隊と合体し、「大陸打通」はとりあえず成功し、1945年の2月頃までは占領地を確保していたが、日本が占拠したのは点と線だけで、そのあと攻勢をかけてきた連合軍の攻撃にひたすら撤退戦を戦うこととなった。サイパンが陥落した時点で、引き揚げてくれば、犠牲はだいぶ少なくて済んだものを、損切が出来なかったのである。
アメリカは中国本土からB-29を出撃させるより、マリアナ諸島を攻略して、ここからB-29を出撃させて日本本土を空爆することの方が効率が良いと考えてサイパン(マリアナ諸島の日本の基地があった島)侵攻の機会を虎視眈々と狙っていた。ただネックはフィリピンに早期侵攻を主張するマッカーサーの同意がなかなか得られなかったことだ。
戦争初期のフィリピンの戦いで、フィリピンからオーストラリアに逃げ出したマッカーサーは、名誉回復のためにどうしても真っ先にフィリピンに侵攻したかったのだ。そこで、マリアナは真珠湾から3000マイルも離れていて遠すぎることを理由にマリアナ侵攻に反対していたのである。
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