池田清彦のやせ我慢日記
/ 2024年6月14日発行 /Vol.265
INDEX
【1】やせ我慢日記~日本の近現代史における歴史的分岐点について4~
【2】生物学もの知り帖~ビタミンDはがんを抑える~
【3】Q&A
【4】お知らせ
『日本の近現代史における歴史的分岐点について4』
前回は日本軍が戦争初期において陥落させた香港、シンガポール、フィリピンなどにおける、捕虜や現地の人に対する扱いが適切ではなく、戦いに勝っても統治能力がないことを述べた。戦いに勝っているうちに日本に有利な条件で和平に持ち込もうという戦略は、相手の憎悪と反感を買ってはまず無理だということを理解しなかった日本の指導者は愚かというほかはない。ドイツがイギリスに勝つことを当てにして、まずイギリスを降伏に追い込んで、アメリカの厭戦気分を煽って和平に持ち込めるだろうというのは、将棋で言うところの「タラ・レバ」の勝手読みで、これでは、上手くいくわけがない。
ナチスドイツも似たようなものだけれども、愚かな戦争の指導者の特徴はどんどん戦線を拡大することばかりに熱心で、余裕があるうちに引くという選択肢が眼中に入らないことだ。シンガポール陥落と前後して、日本は、ジャワ沖海戦、バリ沖海戦、スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦に次々に勝利して、東南アジア方面の連合国艦隊をほぼ壊滅に追い込み、蘭印(オランダ領東インド:現在のインドネシア)を制圧して、この地の石油を手に入れた。さらにはビルマに侵攻して42年の5月末までにはビルマを制圧した。
東南アジアの制空権と制海権を手に入れた日本軍は、1942年2月19日のダーウィン空爆を皮切りに1943年11月まで、オーストラリア本土に対して97回の空爆を行った。連合国軍がオーストラリア北部の空港を利用して、日本が占領した蘭印に対して攻撃するのを阻止するのが目的であったが、オーストラリアはアメリカに助けを求め、日本軍はそれを阻止するために米豪遮断作戦を立て、連合軍の基地があったポートモレスビー(パプアニューギニア南東部の都市)を占拠する計画を立てた。こうやって戦線を拡大すればするほど、人的資源も物的資源も枯渇していくことは明らかで、やがて補給が追い付かなくなることは分かりそうなものだけれども、威勢のよさを競っていた軍の指導層は、非拡大方針を唱えたものを敗北主義と罵って、クラッシュへの道をひた走ったわけである。
日本軍は珊瑚海からポートモレスビーに上陸する作戦を立てたが、暗号を解読した連合国軍が待ち伏せをして、艦上機で日本の攻略部隊を攻撃し、5月上旬に日本の空母3隻(瑞鶴、翔鶴、祥鳳)と米空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を主戦力とする艦隊の間で激しい戦闘になった。米軍は大型空母レキシントンが沈没したのに対し、日本軍は小型空母祥鳳が沈没したので、戦闘としては日本軍の勝利と言ってよかったが、日本軍の消耗は激しく海からのポートモレスビー攻略は不可能になり陸路からの攻略に作戦を切り替えた。しかし最高峰4000mのオーウェンスタンレー山脈を超えての進撃は困難を極め8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸して、ソロモン諸島での戦闘が激化して、そちらに作戦機を回さざるを得ず、空路からの補給も不可能になり、結局、陸路からの攻略も失敗した。
そして42年の6月にミッドウェー海戦で日本は大敗する。前々回のメルマガで書いた通り、ここから先は、日本には降伏する以外に戦争終結の道はなかったので、さっさと白旗をあげればよかったのだが、強がりと意地に支配された軍部の指導者の頭は固く、大本営発表とマスコミの誇大宣伝を信じ込まされた多くの国民もまた、本心はともかく、表向きには戦争継続を支持せざるを得なかったので、日本はずるずると勝ち目のない戦争を続けることとなった。
ポートモレスビーを攻略できなかった日本軍はそれでも米豪遮断作戦に固執して、ガダルカナル島(ニューギニアの東、ソロモン諸島の島)に航空基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を確保しようとした。アメリカの反攻時期は1943年くらいだろうと見くびっていた日本軍は600人というわずかな人数で、滑走路を建設していた。
しかし、アメリカは42年7月に入ってから、ガダルカナル島への偵察と爆撃を開始して、42年の8月7日、アメリカ海兵隊員10900名が上陸を開始して、日本の守備隊との間で壮絶な戦いとなったが、多勢に無勢で、建設中の飛行場は連合軍の手に落ちた。日本軍はガダルカナル島に援軍を送ることになり、ここから日本軍と連合軍はガダルカナル島で、長い攻防戦に突入する。
この記事は約
NaN 分で読めます(
NaN 文字 / 画像
NaN
枚)