【第78号】大川原 明の「アキーラ海外見聞録」6月10日発行!先の大戦激戦地-日本人墓地‐海外慰霊
海外の戦跡地に関して
日本は江戸時代末期に欧米列強の開国要求が増して尊王攘夷運動が高まり、倒幕派と佐幕派による国内動乱を経て明治維新を迎えました。明治維新後に富国強兵のもと、欧米の文化を受け入れつつ、中央集権国家として国を大きくしていきました。日清、日露戦争での勝利、第一次世界大戦では連合国側で参戦して勝利を収め、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアと共に世界の五大国と称されるまでになりました。
その後、第二次世界大戦時に枢軸国として参戦して連合国と戦いました。昭和十六年の十二月八日に真珠湾攻撃による太平洋(大東亜)戦争開戦。太平洋島嶼国や東南アジア各地での連合国軍との戦いは当初、連戦連勝でした。しかし、昭和十七年六月のミッドウェー海戦での日本軍の敗退により、日本側は領空権と領海権を失い、それ以後、戦争の主導権がアメリカ側に移りました。
その後、ガダルカナル島の戦いやソロモン海戦、アッツ島玉砕。マリアナ、パラオ諸島、ペリリュー島の戦い、レイテ決戦、ビルマとフィリピンの失陥。サイパン、グアム、硫黄島の戦い、本土空襲、沖縄戦、広島と長崎への原爆投下。ポツダム宣言を受諾後、昭和二十年八月十五日に終戦を迎えました。
著者は先の大戦下に日本と連合国軍が戦った激戦地を慰霊訪問しています。有史以来、世界各地で争いがない時代はありませんでしたが、現地を訪れると戦争、平和に関して深く考えさせられます。日本が統治した国々では、日本統治時代の建物や武器や戦車や戦闘機などが残っており、その当時の光景が思い浮かびます。
戦跡には亡くなった日本兵の遺族会が慰霊のために立てた日本人墓地や慰霊碑があります。今の日本があるのは戦争で亡くなられた英霊(戦死者)の犠牲の上にあるもので、これら英霊に感謝し、霊を慰めるために著者は海外の戦跡を訪問しています。
激戦地以外にも世界各地に日本人墓地があります。先の大戦が終結する直前、昭和二十年八月九日にソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告。当時日本の傀儡国家で多くの日本人が住んでいた満州、日本の統治していた朝鮮半島、日本の千島列島や南樺太に侵攻してきました。これに対して満州に本拠を置く関東軍がソ連兵と戦いました。八月十五日には関東軍は停戦を決定し、諸部隊は逐次戦闘を停止しました。しかし、前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もありました。
停戦後、関東軍将兵の多くはソ連の捕虜としてシベリアやソ連各地に抑留され、現地で過酷な環境下で過酷な強制労働に従事させられ、多くの死者を出しました。ソ連各地に抑留日本人の墓地があります。
◆パラオ共和国
太平洋に浮かぶ小さな島国『パラオ共和国』。面積は日本の屋久島とほぼ同じ四八八平方キロメートルで人口は約一万八千人の小さな国です。海が綺麗で、ビーチリゾートとして海外からの観光客が訪れる国で、日本人も多く観光で訪れる国です。
第一次世界大戦でドイツが敗北すると、それまでドイツが国連から統治を委任されていた南洋諸島を連合国として参加して勝利した日本が引き継ぐ形になりました。そのうちの一つがパラオです。第一次世界大戦勃発後に日本はパラオを含むミクロネシア(南洋群島)を占領しました。その後、大正九年に当時の国際連盟からパラオを含むミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められました。
それから第二次世界大戦時、昭和二〇年に日本がポツダム宣言を受諾し降伏するまで日本の委任統治領でした。占領下も含めれば三〇年年近く日本が統治したのですが、パラオにはその当時の日本の関連物が多く残されています。
パラオ訪問経験のある方からパラオの人々は親日と聞いていましたが、実際に著者がパラオを訪問して数多くのパラオ人と交流してパラオが親日国である事を実感しました。パラオのコロール島を歩いているとヨージローという日本の名前をつけた自動車修理工場がありました。
また、タクシーを利用するとヨシオという名前の運転手と出会いました。日本の血が入る日系人かと思って運転手にたずねると、『日本の血は入っていないが、自分の父が尊敬する日本人に自分の名前をつけてもらった』と言われました。対日感情が非常によく、殆どの人が日本統治時代を肯定的に考えていると実感しました。パラオは親日国の中でも親日だと世界の半分を周ってきた小生は思います。
パラオでは現代日本人があまり使わなくなったチチバンドやデンキバシラなど日本統治時代に広まった日本語が使われています。日本統治時代に日本語教育がおこなわれていましたので、統治時代に教育を受けてきた人は日本語が話せます。統治時代を知るパラオ人が減っている現代においても、『ありがとう』『こんにちは』など簡単な日本語を理解する人々は非常に多いです。
そんなパラオは先の大戦も終わりにさしかかる頃に日米の激戦地となりました。日米激戦地となったのはペリリュー島とアンガウル島です。著者は二島のうちペリリュー島を訪れました。パラオの中心となるコロール島の港から小さなボートで一時間程の距離にある面積十三平方キロメートルの小さな島です。
ペリリュー島到着後に『I LOVE NIPPON』日本を愛しているというシャツを着ている女性と遭遇しました。一緒に記念撮影をしましたが、一人の日本人として非常に嬉しく感じたものです。
ペリリュー島は昭和十九年九月十五日から同年十一月二十七日に日米の激戦地となった島です。アメリカ軍の当初の予定では島を四日で攻略する予定でしたが、要塞と化した洞窟陣地を利用したゲリラ戦法を用いた日本軍の組織的な戦いが長期化し、戦いは二か月半続きました。
中川州男大佐率いる日本軍の戦力は約一万九千人、戦車や戦闘機は殆どない状態でした。それに対してアメリカ軍は、兵力は日本の四倍、約四万九千人で航空機約千八百機、戦車百十七輛と人員も物量もアメリカ軍が日本軍を圧倒しています。
アメリカ軍は上陸前に日本軍の戦力を失わせるために、沖の艦隊からの艦砲射撃と空からの爆撃で徹底的に攻撃しました。しかし、洞口陣地を築いていた日本軍、日本兵が洞窟内にいたので大きな被害を受けませんでした。日本軍が壊滅状態になったと思ったアメリカ軍は上陸時の日本軍の抗戦ぶりに非常に驚きました。
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