□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.285
2024年5月2日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
○聖と穢れ・失われた聖性
・聖と俗を結ぶ者
・穢れを扱う人々
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖と穢れ・失われた聖性
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
前回は、「虹の立つところに市を立てる」という話から、聖地の成り立ちの一つの形態に焦点をあて、聖地が聖と俗を結ぶ結節点であるとともに、俗な権威や権力から隔離されたアジールとして機能するようになったことを縁切寺などを例に掘り下げてみました。
そうした聖地は、当然、そこを運営する人間がいなければ成り立ちません。聖地は聖と俗の結節点であるわけですから、その運営に携わる人間は、俗から離れた人間でなければいけないわけです。神職や僧侶は寺社という聖地を管理する者ですから、当然、俗から距離を置いていなければなりません。さらに、聖地は寺社だけでなく、古くは市場もそうでしたし、葬送に関わる場所も聖地ですから、それらを管理、守護する役目を負った人たちがいました。彼らもやはり俗から距離を置く人たちでした。
俗世間に身を置く人間にとって、彼らはいわば不可触の民でした。古代から中世にかけて、そうした聖地や聖に関わる不可触の民は、神に近いものとして畏怖の対象でしたが、封建社会が成立して経済原理が支配するようになっていくと、彼らは被差別民としてその存在を貶められていきました。
今回は、前回の流れの続きとして、そうした聖地や聖に関わる人間に焦点を当ててみたいと思います。
●聖と俗を結ぶ者●
この記事は約
NaN 分で読めます(
NaN 文字 / 画像
NaN
枚)