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高野孟のTHE JOURNAL Vol.614 2023.8.21
※毎週月曜日発行
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《目次》
【1】《INSIDER No.1220》
立憲君主・2院制・男女同権を提唱した米沢藩士の憲法
案/「民権思想」を遡る・その4
【2】《CONFAB No.580》
閑中忙話(8月13日~19日)
【3】《FLASH No.528》
麻生副総裁の「戦う覚悟」発言が改めて示した底の浅さ
/日刊ゲンダイ8月17日付「永田町の裏を読む」から転
載
■■INSIDER No.1220 23/08/21 ■■■■■■■■■■
立憲君主・2院制・男女同権を提唱した米沢藩士の憲法
案/「民権思想」を遡る・その4
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前回(No.1218「公武合体構想こそ明治維新の本筋だ
ったのでは」)で、上田藩士の赤松小三郎の「公武合
体」による平和的な政権転換と早期の普通選挙による2
院制議会開設の構想こそが明治維新の本筋であり、それ
をテロと内戦激発でブチ壊して軍事帝国の建設に突き進
み、議会開設についてはロクな考えも持っていなかった
長州・薩摩の野蛮はむしろ脇道だったのではないか、と
いうことを論じた。
赤松の建白書が、内容面の先進性においても、慶應3
(1867)年5月という発出時機から見ても、まことに先
駆的であったことは疑いないけれども、しかし、彼は決
して突出し孤立した存在ではなく、維新のだいぶ前から
江戸幕府の足元ばかりでなく全国各地の藩でも、そのよ
うな国体変革を巡る議論が盛んに行われるようになって
いた。
●洋学紳士ぶりの広がり
その中心は、嘉永6(1853)年のペリー来航を受けて
洋学研究の切迫性を痛感した幕府が2年後に開設した
「洋学所」(翌年に改称して「蕃書調所」)で、そこで
は例えば、文久元(1861)年にドイツ語教官の加藤弘之
が原案を執筆した、専制君主・立憲君主・貴族共和・民
主共和の政体4類型を論じつつ立憲君主制を望ましいも
のとした「最新論」に、同僚の蘭語・英語教官の西周、
津田真道が詳細に朱書批評した文書が回覧されたりして
いた。
この加藤、西、津田らと、蕃書調所に一時は入ったが
飽き足らずにすぐに辞め、自分で「蘭学塾」(後の英学
塾、慶應義塾)を立ち上げた福沢諭吉とか、あるいは薩
摩藩の洋学校「開成所」から欧州に密航・留学した森有
礼とかは、中江兆民が描くところの「洋学紳士」ぶりで
共通しており、実際、彼らは後に揃って「欧米事情通の
啓蒙派」の大拠点「明六社」を結成するのである。
しかし、面白いのは、森が出た薩摩の「開成所」だけ
でなく維新前後には多くの藩が公認の藩校や個性的な私
塾を持っており、それらが江戸から外人もしくは外遊経
験のある日本人の講師を招いたり、あるいは優秀な学生
を江戸や長崎に遊学させたりするといった交流が、ごく
当たり前に行われていたということである。
●米沢藩士の憲法草案
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