大森一樹さんが亡くなった。
体調が悪くて、監督協会の理事会に出られないということはあったが、そこまでひどい状態とは知らず、本当に残念だ。
このメルマガでもいろいろな人の死に触れているが、ここしばらくで最も悲しい死だ。
私が高校生くらいのときに、大森さんは関西の自主映画界のカリスマのような存在だった。
何本か、自主映画の話題作を撮った後、私が高校生のときに『オレンジロード急行』という映画の脚本を書き、メジャー映画の城戸賞という脚本賞をとるのだが、そのままその作品でメジャー監督デビューした。
そのとき彼は、京都府立医大の医学生だった。
78年4月の作品だから、私が高校3年生になったとことだったが、もっと前に、つまり私が高校2年生のときに彼の城戸賞とメジャー監督デビューがニュースになっていた。
実は、私は高校2年生の春に藤田敏八監督の『赤い鳥逃げた?』という映画をみて、映画監督を志すようになった。
原田芳雄が演じる青年がすることがなければ28歳のポンコツ、いっぺんにジジイになっちまうんだというセリフを吐くのだが、私自身、当時何になりたいかが決まっていない通っている学校だけが立派な劣等生(灘校では東大に入れそうにない人間は劣等生の扱いを受けていた)だったので、「俺も17歳のポンコツ」と思った。
映画を見ていると、最後にエンドロールが流れるのだが、脚本はのちに大河を書くジェームス三木、音楽は樋口康夫、撮影は鈴木達夫という風に、役者が演技をして、脚本家がストーリーを作り、名カメラマンが絵を作り、音楽をつけてもらえば、監督は思いをぶつければいいだけなどと虫のいいことを思いついた。
そこで映画監督を志し、東大の文3を目指すわけだが、当時学年で220人中170番くらいだったが、当時の灘は東大に100人以上合格するし、東大の理1より難しい京大と阪大の医学部に合わせて50人くらい受かっていたから、もうちょっと成績が上がれば文3ならいけるなと甘いことを考えていた。
ところが、ロマンポルノを月に6作作っていたために、大手の映画会社の中で唯一助監督試験を行い、社員助監督を採用していた日活がそれをやめてしまった。
文3から映画監督という夢は断ち切られた際に、大森一樹さんの出現は颯爽としていたし、夢を与えられた気がした。
当時はATGという自主映画の配給会社があったので、自分で1000万か2000万集められれば映画が撮れる。
そう思って、志望を医学部に変更したのを覚えている。
当時の成績では文3はともかくとして、理3は無謀だったのだが、そこで暗記数学を実行したり(実は、「数学は暗記ですから」とおっしゃっていたのは、予備校からきた数学の先生だったが)、合格者の最低点狙いという戦術で合格を狙った。
結果的に合格できたのだが、それ以上に、このときに考えた受験テクニックが、その後の生活の大きな助けになり、受験勉強法の通信教育を創業して、その会社の利益をためて最初の映画を作ることができた。
そういう意味で、大森さんには本当に感謝している。
若すぎる死に悲しむし、恩人であるのに、監督協会で何度かお会いした際にそのお礼を言えなかった後悔からも悲しくてやりきれない。
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