前回、日本人が結果よりプロセスを重視する話をした。
日本に限ったことではないのかもしれないが、法律もプロセス重視になっている。
人を撥ね殺すより、飲酒運転がみつかるほうが免許の点数も大きくひかれる。
人の命より警察のいうことを聞くかどうかが大切なのだろう。
私が医者になりたての頃はそうでもなかった。
国立水戸病院というところに勤務しているが、夜の食事が終わった後、よく呼び出された。当然、食事のときにお酒を飲むわけだが、酒臭い息をしながら病院まですごいスピードでかけつける。
ときに警察につかまるが、赤い顔をした私が「また水戸病院に呼ばれて」というと、「ご苦労様です、先導しましょうか」と言ってくれる。
私が飲酒運転をして人をはねる確率はせいぜい1万分の1だろうが、病院にいかなければ30%くらいの確率で患者さんは死ぬ。
昔の警察はそのくらい当たり前のことがわかっていた。
今は行かなければ100%死ぬ人のために向かっていても、飲酒運転がみつかればアウトだ。警察のせいで現場の医師たちの負担はふえ、応援も頼めない。
こういう話をするのは、テレビをみていたら、詐欺にひっかかって自殺した若い女性がニュースになっていたからだ。
この案件では詐欺に立件できないのではという話だ。罪は軽い。
結果的に人が死んだのなら、詐欺的犯罪致死みたいな罪に問えないのだろうか?
児童虐待などの場合、殺意認定が難しいということで傷害致死になることが多く、殺人に問えないようだ。これだって児童虐待というだけで、子どもが複雑性PTSDになる確率が高く、その人が一生苦しんだり、社会適応できなかったり、犯罪者になる可能性もあるのに、児童虐待そのものを厳罰化して、その上「致死」ということになれば、殺人より罪を重くすればすむだけの話だ。
いじめ自殺にしても、相手が死んだら「いじめ致死」罪を設ければいい。
今は、逆らいそうにない人間を選んでいじめるのだろうが、もし相手が自殺すれば厳罰ということになれば、もう少し相手を選んでいじめるようになるかもしれない。
そうすれば、心の弱い子どもが少しは救われるかもしれない。
電通元重役のオリンピック汚職で話題がいっぱいになっているが、そのせいで旧統一教会の事件がかすみつつある。(これも自民党が検察を動かして、旧統一教会事件を霞ませる戦略かもしれない)
しかしながら、国にどれだけ損をさせたかということでは旧統一教会から金をもらって日本経済が韓国経済に負けるよう仕向けた人間のほうがはるかに罪が重い。
もう少し結果責任という考えが広まってくれると日本はましな国になる気がするが。
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