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菅首相のわずか1年の退陣で考える、「自民党」という組織とは何なのか? ~4~ 自民党の歴史
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1964年、日本は東京オリンピックを控え、インフラの面においては9月には名神高速道路が開通し、10月には東海道新幹線が開業、東京の大改造も行われ、都心と羽田空港を結ぶ首都高速道路も開通した。
自民党の一番の”負の歴史”はリクルート事件であった。宮澤蔵相、長谷川峻法相、原田憲経済企画長官の現役閣僚の3人が辞任し、翌年89年2月にはリクルート会長をはじめ、NTT幹部8人が逮捕され、加藤、高石らが地検の事情聴取を受ける。
ロッキード事件では致命傷を負ったのは田中角栄であったが、しかしリクルート事件では、自民党のほぼ全ての派閥のトップがダメージを受ける。
目次
・保守合同前史
・自由民主党結党
・高度経済成長と自民党
・55年体制の崩壊
・自民党が仕掛けた、第二次“政治の季節”
・日本国憲法=自民党=日米同盟=米軍基地という戦後レジーム
・保守合同前史
戦後の日本の政治下では、多くの政党が誕生した。1946年4月10日の第一回目の総選挙においては、13の全国政党を含め、363の政党が議席を得る。
このうち保守政党は、戦前の日本の二大政党制を築いていた立憲政友会や立憲民政党の系譜を踏襲する複数の政党として再建はされており、保守合同が幾度も模索されながらも実現には至らなかった。
46年4月10日に行われた戦後初めての総選挙では、のちに自民党初代総裁となる鳩山一郎が率いていた「日本自由党」が第一党となる。しかし肝心の鳩山は首相になることができない。
同年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は公職追放を指令、これにより軍国主義者と見なされた多くの政治家が公職を追われることなる。首相になるはずだった鳩山も戦時中に国会議員であった責任が問われ、追放される。
代わりに白羽の矢が立ったのが外務大臣であった吉田茂であった。周りからも強く推薦されるが、だが吉田自身は当初、首相を引き受ける意欲も野心もなかった。吉田自身が、「自分は政治家になる器ではない」とすら言っていたというほどだ。
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