夏の特別編「勘違いから始まった辞書との付き合い」

前田安正の「マジ文アカデミー」
小学5年から中学1年まで、父の転勤で札幌に住んだ。小学校から数百メートルの場所にある公立中学校に進んだ。身長146センチの僕は、入学式に付き添った母より小さかった。ぶかぶかの学生服と学帽。緊張しながら校舎に向かう足取りは、「おもちゃのマーチ」に出てくる兵隊さんのようにぎこちなかった。 入学式を終えて、教室に入る。指定の席につくと、僕の前に座っている男子が、いきなり振り向いて言った。 「僕ね、中1の間に広辞苑を全部読むんだ」 彼とは同じ小学校にいたことは覚えているが、そんなに親しくもなかった。ニカーッと笑ったその顔は「不思議の国のアリス」に出てくるチシャ猫のようだった。 指をぐるぐる回して素手でトンボを捕まえることに夢中だった僕は、背も精神年齢も低かった。それでも「広辞苑」が当時、一番分厚い国語辞典の名前だということは知っていた。たしか家にもあったはずだ。しかし、その辞書を引いたことはなかった。 辞書を読むというのは普通の読書とは違うんだろうな、ということは漠然とわかった。それでも、 普通の読書と何が違うのか、 広辞苑を全部読むことにどんな意味があるのか、 そもそもどうして辞書を読もうと思ったのか、 ということになると、まったく考えが及ばなかった。彼の行動そのものが「不思議の国のアリス」のワンシーンの出来事のように思え、ますますチシャ猫の笑った顔が彼と二重写しになるのだった。 「広辞苑を全部読む」 チシャ猫から発せられたことばはそれ以降、ずっと頭の隅に棲み続けた。
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