今回は、「ヘロドトスの伝統とトゥキュディデスの伝統」の前半をお送りします。
第一節 はじめに
古代ギリシア人たちは、歴史とはなにかを知っていた。冗談好きの私でも、この事実を否定するほど愚かではないと前章では示せただろう。
批評家ドライヴァーは『ギリシア演劇とシェイクスピア劇における歴史観』(一九六〇年)で、「ギリシア人の歴史意識として想起されるのは、それが本質的に非歴史的なことだ」と記している。この一節を読んで、私はその意味を自問した。
たしかに「ギリシア精神」が非歴史的だという考えは由緒ある系譜をもち、思想史家コリングウッド(Robin George Collingwood, 1889-1943)や神学者ニーバー(Reinhold Niebuhr, 1892-1971)を経由して哲学者ヘーゲルまでさかのぼれる。この考えはとくに神学者たちのあいだで流行した。彼らは、キリスト教が画期的な歴史理解をもたらしたと考える傾向にあるからだ。
こうして古代ギリシア人は歴史的な精神をもたないと主張されるが、それは彼らが規則的な循環や自然法、時間を超越した実体といった観点で思考するからだという。さらにはギリシア人の悲観主義でさえ、歴史を理解できない証左とされる。
これらの誤解のほとんどは、「ギリシア精神」についての不確かな一般論にもとづいている。ギリシア精神は、歴史家のヘロドトスやトゥキュディデス、ポリュビオスよりも、哲学者のピュタゴラスやプラトン、ストア派のゼノンと親和性をもつというのだ。ギリシア精神がなにを意味しようとも、プラトンの態度と同一視するなら、歴史に無関心だという結論になるだろう。
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